この記事でわかること
・自己受容は、好きになれない自分を追い出さないこと
・「受け入れる」と「あきらめる」は、同じではない
・自分の短所を、長所に言い換えなくても
・書くことは、自分を採点するためだけにあるのではない
「もっと自分を好きになろう」そんな言葉を見かけるたびに、少しだけ引っかかることがあります。自分を好きになれたら、たしかに気持ちは軽くなるのかもしれません。でも、好きになろうとして、どうしても好きになれなかったら。そのとき、ぼくらはどうすればいいのでしょう。
仕事で小さなミスをした日。帰りの電車で、なんとなくスマホを開く。誰かの充実した一日が流れてくる。別に、誰かと競争しているつもりはない。それでも画面を閉じたあと、自分だけが取り残されたような気持ちになることがあります。そんな夜に「もっと自分を肯定しよう」と言われても、なかなか難しいものです。
今日は、自己受容という言葉について、少し考えてみたいと思います。自分を好きになることと、自分を受け入れること。似ているようで、少し違う話です。
自己肯定感は、思っているより忙しい
自己肯定感という言葉を聞くと、いつも自信があって、前向きに生きている人を想像するかもしれません。でも、実際の気持ちはもう少し複雑です。
仕事で褒められた日は、自分もなかなか悪くないと思える。ところが翌日、たった一通のメールで指摘を受けると、昨日の自信がどこかへ消えてしまう。褒められたことは意外と忘れるのに、失敗した場面は何度も思い出せる。人間の記憶というのは、ときどき不思議な働き方をします。
自己肯定感にも、そんな揺れがあるように思います。調子のいい日もあれば、そうではない日もある。それなのに、いつも自分を肯定できる状態を目指してしまうと、気持ちが沈んだ日に、もうひとつ仕事が増えます。「こんなふうに落ち込む自分を、なんとかしなければ」
落ち込んでいるだけでも疲れるのに、落ち込んでいる自分まで直そうとする。それは、なかなか忙しいことです。
自己受容は、好きになれない自分を追い出さないこと
では、自己受容とは何なのでしょう。ぼくは、この言葉を「今の自分を、無理に別の人間へ変えようとしないこと」と捉えています。
たとえば、仕事で失敗したとします。「ああ、今日はうまくいかなかった」そう思うのと、「だから自分はダメな人間なんだ」そう思うのとでは、同じ失敗でも、少し話が違ってきます。
前者は、今日起きた出来事についての言葉。後者は、自分という人間全体に向けた言葉です。ぼくらは、ときどきこのふたつを混ぜてしまいます。一度の失敗が、いつの間にか自分の価値についての結論になっている。でも、よく考えてみると、ひとつの出来事だけで、その人のすべてがわかるわけではありません。
ミスをしたことは事実。そのミスをした自分が、いまここにいることも事実。そこに、無理に「でも自分には価値がある」と書き足さなくても、話は成立する気がするのです。
好きになれないところは、好きになれないまま残っている。それでも、その部分を自分の中から追い出そうとしない。自己受容というのは、案外、そんな静かな感覚なのかもしれません。
「受け入れる」と「あきらめる」は、同じではない
ここで、少し気になることがあります。今の自分を受け入れてしまったら、人は変わらなくなるのでしょうか。苦手なことも、失敗したことも、そのままにしておく。それでは、単なるあきらめになってしまう気もします。
ただ、疲れている自分を認めないまま、元気なふりをして予定を詰め込むことを考えてみると、少し違う景色が見えてきます。疲れていると認めたら、予定を減らすという選択肢が生まれる。苦手だと認めたら、誰かに相談するという選択肢が生まれる。失敗したと認めたら、次にどうするかを考えることもできる。現状を受け入れることと、現状を固定することは、別の話なのだと思います。
変わりたい気持ちがあるなら、それも今の自分の一部。今日は何も考えたくないのなら、その疲れもまた、今の状態です。自分を受け入れた先に、必ず成長が待っているわけではない。そこが、ぼくはむしろ自然だと感じます。
変わる日もあれば、変わらない日もある。人間は、毎日きれいな右肩上がりの線を描いて生きているわけではありませんから。
自分の短所を、長所に言い換えなくても
「短所は、見方を変えれば長所になる」そんな考え方にも、たしかに一理あります。慎重な人は、物事を丁寧に考えられる。人前で話すのが苦手な人は、人の話をよく聞ける。
でも、ぼくはときどき、そこまで言い換えなくてもいいのではないかと思うことがあります。人前で話すのが苦手なら、苦手。決断に時間がかかるなら、時間がかかる。それで困る場面もあるでしょうし、別の場面では役に立つこともあるでしょう。ただ、それだけのことなのかもしれません。
自分の嫌いな部分を、すべて魅力に変換しようとすると、今度は「長所にできない自分」が気になり始めます。短所を長所に変える作業まで、宿題にしたくはありません。
苦手なことは、苦手なまま。いまはそういう自分だと知っている。そのくらいの距離感が、ちょうどいい日もありそうです。
失敗した日の夜は、反省会が長くなる
不思議なもので、失敗した日の記憶は、夜になると少し鮮明になります。昼間は忙しくて考える暇もなかったのに、歯を磨いて、部屋の明かりを消した途端、あの場面が戻ってくる。
「あの言い方はよくなかったな」「どうして、あんなことを言ったんだろう」「また同じことを繰り返したらどうしよう」ひとり反省会の始まりです。
振り返ること自体は、悪いことではないのでしょう。ただ、いつの間にか反省の対象が、出来事から自分自身に変わっていることがあります。「あの対応はよくなかった」が、「自分はいつもダメだ」になっている。こうなると、いくら考えても、なかなか終わりません。
今日の失敗を、明日のために振り返る。それと、今日の失敗を使って、自分という人間を裁き続けること。このふたつには、少し距離があってもよさそうです。
失敗した日は、ただ失敗した日。一日の記録としては、それだけでも十分に具体的なのです。
前向きな言葉が、しっくりこない日もある
以前、自己肯定感を高めようと、前向きな言葉を書き続けていた方の話を聞いたことがあります。本を読み、言葉を探し、「私は大丈夫」と自分に言い聞かせる。それでも仕事で失敗すると、積み上げてきたものが全部崩れるように感じていたそうです。
そこで、前向きな言葉を書くことから、今日あったことをそのまま書くことへ、少し方向を変えてみたといいます。「今日は疲れていた」「午後は集中できなかった」「帰り道の夕焼けがきれいだった」
どれも、特別な言葉ではありません。何かを達成した記録でも、明日を変える決意でもない。その日、そこにあったもの。そうした記録を続けるうちに、前向きになれたというより、自分を責める時間が少し減った気がする、と話してくれました。この話は、今も印象に残っています。
ぼくらは、ノートを開くと、つい何か意味のあることを書こうとします。今日できたこと。感謝したこと。明日の目標。もちろん、そういう記録が心地よい日もあります。
でも、疲れ切っている夜には、空欄を前にして何も浮かばないことだってありますよね。そんなとき、記録することまで、もうひとつの評価になってしまったら。少し、もったいない気がします。
書くことは、自分を採点するためだけにあるのではない
ぼくが「書くこと」に惹かれるのは、言葉にすると、頭の中にあったものを少し離れた場所から眺められるからです。「今日は何もできなかった」そんなふうに感じた日でも、実際に起きたことを書き出してみると、少し違ったものが見えてくることがあります。
朝、眠かった。仕事で返事に困るメールが来た。昼ごはんを食べる時間が遅くなった。帰り道は、風が冷たかった。そこに、成功も失敗も書かれていません。ただ、その日があったという記録です。
書いたからといって、気持ちが必ず軽くなるわけではないでしょう。読み返しても、何も感じない日があるかもしれません。それでも、何かを改善するためではなく、今の自分が見ていたものを残す。そんな書き方にも、意味があるように思います。
そして、何も書かなかった日も、ちゃんと一日は過ぎています。ページが空白だったからといって、その日まで空白になるわけではありません。
自分を好きになれない日が、あっても
自己受容について考えていると、結局のところ、自分を好きになる必要があるのだろうか、という問いに戻ってきます。
もちろん、自分を好きだと思える日は、気分がいいものです。何かがうまくいって、少し自信を持てる。自分の選択を、素直によかったと思える。そんな日があるのは、うれしいことです。でも、いつもそうである必要はない気がします。
今日の自分をあまり好きではない。それでも、お風呂に入って、明日の服を用意して、眠る。朝になったら、また一日が始まる。人は、自分への評価が定まらないままでも、生活を続けているのですよね。
自己受容は、その曖昧さをなくすことではないのかもしれません。好きなところも、嫌いなところも、まだよくわからないところもある。答えを急がず、そのままにしておく。ぼくは、そんな自分との付き合い方に、少し惹かれています。
今日のDrop
今日、自分に向けた言葉の中で、いちばん厳しかったものは何でしょう。その言葉は、起きた出来事についてのものだったでしょうか。それとも、自分自身についてのものだったでしょうか。
答えを出すよりも先に、ふと気になった問いとして、ここに置いておきます。
よくある質問
自己肯定感と自己受容は、何が違うのでしょうか?
自己肯定感は、自分をどのように評価し、価値を感じているかに関わるものです。一方、自己受容は、自分の得意な部分も苦手な部分も、今ある状態として認めること。
「自分をよいと思えるか」と「よいと思えない自分をどう扱うか」。この違いで考えると、少し整理しやすいかもしれません。
自分を受け入れると、成長できなくなりませんか?
今の自分を知ることと、今のままであり続けることは、別の話です。苦手なことを認めたうえで、練習することも、人に頼ることも、いったん距離を置くことも考えられます。何を選ぶかは、そのときの自分の状態や置かれた環境によって違ってくるのでしょう。
自分を責めるクセが、なかなか抜けません。
自分を責める言葉は、長いあいだ繰り返してきたものかもしれません。すぐに別の言葉に置き換えるのは、難しいこともあります。
「また自分を責めていたな」そう気づく瞬間があったら、そのとき自分が何を気にしていたのか、少し眺めてみる。責めることをやめられない自分まで、責める必要があるのだろうか。そんな問いも残ります。